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かなり以前に古書で購入し、書棚で眠っていたマルケスの『族長の秋』をやっと読んだ。
『族長の秋』(ガルシア・マルケス/堤直訳/集英社/1983.6)
本書と並んで書棚で眠っていた
『百年の孤独』[LINK]を読んだのは5年前のコロナ籠城中だった。あのとき、続けて本書も読めばよかったのだが、果たせなかった。
昨年、『百年の孤独』は新潮文庫になって売り上げを伸ばし、話題になった。単行本を持っている私もこの文庫本を購入した。いずれ再読したい小説なので、その際には活字が多少大きい文庫本がいいと思ったのだ。この文庫本の筒井康隆氏の解説は、次の文で結ばれている。
「『百年の孤独』を読まれたかたは引き続きこの『族長の秋』もお読みいただきたいものである。いや。読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め。」
この強迫的一節で『族長の秋』が気がかりな本となり、読まねばと思いつつ時日が経ち、今年になってこの小説も新潮文庫になり、書架のハードカバーが急に古色を帯びて見え、その古色に「早く読め」と急かされ、ついに頁を開いた。
読み始めると、濃密な文章が紡ぎ出す鮮烈なイメージに圧倒され、引き込まれた。だが、改行なしの文章がいつまでも続き、頭が疲れてくる。読書の息継ぎをするタイミングをつかみ難い。息切れで中断して再開するとき、その頁のどこまで読んだかわからなくなり、少し遡って、重複部分の記憶を確認しながら読み始めることになる。
この長編小説は六つの段落でできている。つまり、改行は五つしかない。時系列やストーリーに沿って話が進行するのではなく、多声的な記録と記憶が織りなす魔宮世界を提示している。
冒頭、われわれは禿鷹が群がる荒廃した大統領府に押し入り、独裁者である大統領らしき老人の死体を発見する。そこから小説は始まる。語り手の「われわれ」が誰かが不明のまま、一人称は「わたし」にも「わし」に変容していく。人称だけでなく時間も不安定である。過去と現在を奔放に往来しながら世界が立ち上がってくる。
死体となった独裁者が本当に死んでいるかどうかも定かでない。過去に生き返ったことがあるからだ。独裁者の年齢は百七歳とも二百歳とも言われている。この小説は、死に瀕した独裁者のパノラマ視のようでもである。混濁した意識が眺める己の生涯には超現実的な場面も混じり、何故かそのパノラマは多様な人々によってランダムに語られる。時間と場面はどんどん転換していく。
この小説のセンテンスが紡ぎ出すイメージは鮮明かつ異様で魅力的だ。大統領府から見える美しい海は、借金のカタにアメリカに持ち去られている。そんな光景を頭のなかに思い浮かべるには、いくばくかの想像力を要する。言葉からイメージが立ち上がるまでに多少の時間がかかる。だから、さらさらと速読はできない。そんな読書時間は至福の時間でもある。
本書を読み進める途中で、この小説は再読するべきだと感じた。小説全体を読了した後、再び味読すれば面白さが倍加すると思えたのだ。起承転結の物語ではなく世界の姿そのものを読む小説だからである。いつの日かの再読に備えて、この小説も活字が多少大きい文庫本を書い足そうかと思った。
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