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『アラブが見た十字軍』[LINK]で当時のイスラム世界の様子を概観し、西欧視点の十字軍についてもザーッと再確認しておこうと思い、次の本を読んだ。
『図説十字軍』(櫻井康人/ふくろうの本/河出書房新社)
著者は十字軍研究の歴史学者である。図版を多用した入門書のつもりで読み始めたが、少し勝手が違った。本書は、現在のおける十字軍史研究をふまえた概説書である。現在、十字軍は次のように定義されているそうだ。
「十字軍とはキリスト教会のために戦うことで贖罪を得ることであり、それは1095年からナポレオンによるマルタの占領(1798年)までの約700年間、いたる所で展開された。」
この定義は、私たちが普通に考える「第1回十字軍(1096-1099)から約200年間のエルサレム奪回軍事遠征」よりかなり広い。本書はこの広い定義に基づいて、約700年間のさまざまな十字軍を概説している。少々面食らったが勉強になった。
歴史家ピレンヌ(1862-1935)は、ヨーロッパの成立に関して「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」というピレンヌ・テーゼを提唱した。本書冒頭、このテーゼは現在では否定されているとしている。驚いた。カロリング朝時代のイスラムの地中海進出が地中海貿易を途絶させ、ヨーロッパの貨幣経済は衰退し、自給自足的農業基盤生活となり、中世の封建社会が形成された、という説の否定である。現在では、イスラムの地中海進出によって地中海交易は活性化したと考えられているそうだ。
また、イベリア半島に侵入したイスラム勢力をフランク王国が押しとどめたトゥール・ポアティエ間の戦い(732年)の際、フランクは相手をイスラムとは認識せず、異教徒の蛮族と見ていたらしい。ヨーロッパがイスラムを本格的に認識したのは第1回十字軍の後だそうだ。ヘェーと思った。
十字軍に関しても「パレスチナの地に財産を求めて行った」「十字軍の参加者は家督を継げない次男・三男だった」という説を否定している。参加者の多くは、後に十字軍家系と呼ばれる特定の家系の者たちだったそうだ。その家系に属する者にとって、十字軍への参加は一種の通過儀礼であり、参加によって当該家系が多くの財産を失うことを承知で参加したという。認識を新たにする見解だ。
本書はフリードリヒ2世がアイユーブ朝のアル・カーミルとの交渉でエルサレムを回復した「東方遠征」について、フリードリヒが破門状態だったため「彼の東方遠征は贖罪価値を伴う十字軍ではなかった」としている。フリードリヒの遠征を「第6回十字軍」とする見方も多いと思うが、現在の定義では十字軍にあたらないらしい。本書はルイ9世の1回目の十字軍を「第6回十字軍」としている。
意外に感じたのは英仏百年戦争(1337〜1453年)が十字軍戦争だとの指摘である。当時、教皇位が分裂し、ローマとアヴィニヨンに教皇が並立していた。それぞれの教皇が贖罪を得る十字軍特権を授けたため、百年戦争は互いに対する十字軍になったそうだ。
ややリゴリズムとも感じられる本書だが、聖地巡礼の黄金期に関する指摘は興味深い。パレスチナの十字軍国家が消滅した後の14〜15世紀が聖地巡礼の黄金期だった。十字軍国家が存在していた時期の巡礼は危険で、パレスチナがイスラム世界になってはじめて安全な巡礼ができるようになったのだ。歴史の皮肉である。
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