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シアターコクーンで『アンナ・カレーニナ』(原作:レフ・トルストイ、上演台本・演出:フィリップ・ブリーン、出演:宮沢りえ、浅香航大、渡邊圭祐、小日向文世、他)を観た。
シアターコクーンは改修工事で来月から休館、再開は2027年だそうだ。それまで私が生きているかわからない。この劇場での最後の観劇か、と考えたのも劇場に足を運んだ動機のひとつだが、世界文学の高名な長編をどう舞台化するかに関心があった。
主役の宮沢りえの熱演が冴えた舞台だった。テンポのいい展開で、あの大長編を3時間45分(休憩20分を含む)の舞台に巧く圧縮している。と言っても、約半世紀前の学生時代に読んだ『アンナ・カレーニナ』の詳細は失念している。漠然と粗筋を憶えているだけだ。
この芝居のチケットを購入したとき、これを機に観劇前に『アンナ・カレーニナ』を再読しようと目論んだ。いつか再読したいと思っている長編は多いが、なかなか実行できない。観劇は再読のいい機会になると思ったのだ。だが、雑事に追われて往時の長編を手に取ることなく観劇の日を迎えてしまった。
私が『アンナ・カレーニナ』を意識したのは高校1年のときである。国語教師に薦められて読んだ『文学入門』(桑原武夫/岩波新書)の次の冒頭が頭に残った。
「文学は、はたして人生に必要なものであろうか? この問いはいまの私には、なにか無意味のように思われる。私はいま、二日前からトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んでいるからだ。私がこの傑作に接するのは、おそらく四度目であろう。(…)もしこのように面白い作品が人生に必要でないとしたら、その人生とは、一たいどういう人生だろう! この傑作を読んだことのある人なら、おそらく私とともに、そういいいたくなるだろう。」
この文章を読んだ高校1年の私が即座に『アンナ・カレーニナ』を手にとらなかったのは、他にも読みたい小説が多くあったからである。トルストイよりはドストエフスキイに惹かれたということもある。何年か後にこの小説を読了したとき、やはり面白いと思った。印象に残るのはアンナの自殺シーンであり、作者自身を反映させたと言われるレーヴィンにはややうさん臭さを感じた。
この小説に関しては池澤夏樹の面白い指摘を読んだことがある(『世界文学を読みほどく』)。池澤夏樹は『アンナ・カレーニナ』が好きでないそうだ。「メロドラマであり、通俗的で、誰にもわかりやすくて、結論がきちんとしている。これこそが大衆小説です」と述べている。
私は桑原武夫の感慨にも池澤夏樹の感想にも共感できる。両者の文学観が大きく隔たっているとも思えない。このことは、いつか考察してみたいが、当面の課題ではない。
当然ながら舞台と小説は別物で、そこから得られる感興も別種である。
今回の舞台では、子供部屋をモチーフにしたシンボリックな舞台装置に驚いた。この舞台装置と多くの椅子を活用した目まぐるしい転換に関心した。
実時間を演じる役者だけでなく、他の多くの役者も舞台の上にいるという仕掛けも面白い。登場人物が想起する人物や別空間の人物が映像として舞台上に存在しているのだ。長編小説をダイジェストとして圧縮しているだけでなく、大きな曼荼羅のような映像空間に圧縮しているように感じた。
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