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ゾラの『制作(上)(下)』(清水正和訳/岩波文庫)を読んだ。ゾラの長編は5年前に代表作『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』を読み、それで十分と思っていたが新たな長編に手を出したのは、先月、映画『セザンヌと過ごした時間』を観たからだ。ゾラとセザンヌの友情を描いたこの映画の感想は
以前のブログ[LINK]に書いた。
映画『セザンヌと過ごした時間』によって、ゾラが少年時代からの親友だったセザンヌとの交友を題材にした小説を書き、それがきっかけでセザンヌと疎遠になったという話を知った。その小説が『制作』だ。
『制作』の主人公は必ずしもセザンヌだけをモデルにしているのではなくマネなど同時代の画家も反映されているという事前知識があった。だから、入手した岩波文庫版のカバーを見て多少の違和感を抱いた。『制作』は上下2冊に分かれていて、上巻の表紙はセザンヌの絵、下巻の表紙はモローの絵だ。上巻の表紙は妥当だが、下巻のモローがよくわからない。ここはマネの絵だろうと思った。
マネの『青年ゾラの肖像』は上巻の口絵に載っているのでマネが無視されているわけではない。読む進めていくと、この翻訳版には随所に挿絵のような形で物語の情景に対応したマネ、セザンヌ、モネなどの風景画の写真が掲載されていてなかなか楽しい。物語のシーンを描いた版画も挿入されていて、これは原書の挿絵をそのまま掲載したと推測される。
さて、問題のモローの絵である。私の違和感は小説読了後に訳者の「解説」を読んで解消された。清水正和氏の「解説」は読み応えのある力作だ。ゾラの生涯と作品の時代背景を要領よく解説すると同時に立派な「小説『制作』論」になっている。
清水正和氏によれば、主人公のクロードにセザンヌやマネが反映されているのは小説の前半までで、後半のクロードは「全くゾラの自由な創造人物と化している」そうだ。後半の主人公については次のように述べている。
「七〇年代の印象派全盛期すらも素通りして、むしろ八〇年代の美術界における象徴的神秘的傾向の台頭を反映しており、クロードがあのギュスターヴ・モローのような一種の幻想的寓意画家に変貌している」。
ユニークな指摘だ。時代に反逆した若者たちが十数年の時間を経て挫折していくという普遍的な青春の物語を超える視点でもある。苦い結末で終わる青春小説という単純な読み方しかできなかった私には刺激的で勉強になった。この解説を読んで下巻の表紙にモローの絵を採用した理由がわかり、あらためて大胆な起用だと感心した。
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