3ヵ月がかりで『仮名手本忠臣蔵』全段を観た
2016-12-25


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国立劇場の『仮名手本忠臣蔵』第三部を観た。10月、11月、12月の3ヵ月をかけて『仮名手本忠臣蔵』全十一段をフルバージョンで観たわけで、それなりの満足感はある。だが、年を取った悲しさで先月や先々月に観た舞台はすでに記憶の彼方で朧になりつつあり、間延びのした長丁場につきあったという散漫な気分にもなる。

 全十一段を休憩時間を入れながら上演すれば15時間ほどになる筈で、1日での一挙上演は無理かとは思うが、やはり一挙に観劇したかったなあと思った。2日がかりぐらいの短時間で全段を観れば、さまざまな絡みが自然な流れに見え、それぞれの場面の有機的な関連を実感的に鑑賞できそうだ。

 そんなことを思ったのは、師直を討った後の「高家紫部屋本懐焼香の場」で、寺岡平右衛門が早野勘平の代わりに縞の財布を戴いて焼香するシーンを眺めながら「そう言えば、勘平や平右衛門が登場する熱のこもった舞台を1ヵ月ほど前に観たなあ」と遠い記憶をまさぐる気分になったからだ。違和感一歩手前の感覚であり、それは私の貧弱な頭のせいではあるが、全十一段を一挙に観れば、違和感ではなく多様な伏線が収束していく素直な快感を得たのではと思われたのだ。

 もっとも、十一段目(討入り)の歌舞伎は浄瑠璃とは異なる実録風に変化しているし、今回の国立劇場の上演台本も『名作歌舞伎全集』(東京創元社)収録の台本とも少し異なってた。映画や小説では「討入り」は重要なクライマックスだが、歌舞伎の「討入り」は付録サービスのよう場面で、クライマックスとは言えない。「討入り」は最終段階の達成であって、そこには人間模様の葛藤はないし、見得を切るような状況もない。それ以前の多様なシーンで盛り上げていって芝居にしているところが歌舞伎独特の面白さだとあらためて気付いた。

 今回の観劇で今ごろになって気付いたことが他にもある。九段目「山科閑居の場」で、加古川本蔵が死に、大石内蔵助が本蔵が被っていた虚無僧笠を拝借して虚無僧姿になって出立するシーンである。台本を読んだ時には、他人の持ち物で変装(?)するなんて変だなあと思っていた。だが、芝居を観ながら、これは加古川本蔵と大石内蔵助を重ね合わせる仕掛けだと気付いた。考えてみれば、一歩違えば加古川本蔵と大石内蔵助の立場は逆転していたわけで、お互いにそのことをよく認識していた筈だ。だからこそ、九段目が成り立っているのだ。

 将来、この芝居をまた観たら、さらに新たな発見をするかもしれない。だが、昔のことは忘れてしまうので、観るたびに自分では新たな発見だと思う可能性も大きい。それでもかまわないが・・・
[演劇]

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