金環日食の太陽の意外な「小ささ」から想起したこと
2012-05-22


禺画像]
昨日(2012年5月21日)、私も金環日食を自宅2階の窓から見ることができた。
 午前7時頃から遮光板で太陽方向を眺めた。最初は雲が厚くて何も見えず、ダメかなと思ったが、ほどなく雲が薄くなり、はっきりと欠けた太陽が見えた。その後も雲の流れで太陽は見え隠れをくり返した。そして、7時30分過ぎ、くっきりとリング状になった太陽を確認できた。日食を観測したのは小学生のころに部分日食を見て以来、ほぼ半世紀ぶりだ。

 今回、日食を観測してあらためて感じたのは、見かけの太陽の意外な「小ささ」だ。ふだん、太陽を直視することはないので、太陽の大きさを気にすることはない。太陽ってこんなに小さかったのかと、少し愛おしくなった。
 その小さな太陽に重なる黒い月も、もちろん小さく見える。満月の月はもっと大きかったような気がするが、目の錯覚なのだろう。

 そして、大空の中で小さな太陽と小さな月が奇跡のニアミスのように重なる姿を眺めると、あらためて日食の不思議を認識した。

 日食の仕組みは上記のような天体模式図で説明されるのが一般的だ。太陽と地球の間に月が並ぶときに日食になり、それは新月のときに発生する。
 子供のころ、このような模式図で日食の仕組みを説明されたとき、新月の時は必ず日食になるように思えた。新月はほぼ1カ月ごとに巡ってくるのに、なぜ、日食はたまにしか発生しないのだろうと思った。おそらく、多くの子供が同じ疑問を抱いたと思う。

 この疑問に対しては、実際には太陽がずいぶん遠くあるから新月のたびに日食になるわけではないという説明があったように思う。実感しにくい説明だった。

 今回、実際に太陽が月によって次第に欠けて行き金環日食になっていく様を眺めていて、日食が滅多に発生しない理由を実感したような気がした。あんなに小さな太陽とあんなに小さな月が、この広大な天空で重なるのは容易なことではないだろうと感じられた。

 この「実感」は太陽や月の見かけの小ささと天空の広大さによって喚起されたもので、決して論理的なものではない。「実感」はあくまで感覚にすぎない。模式図による理解は論理的ではあるが、実感しにくい。どちらが正しいというわけではなく、どちらも中途半端なのだと思う。
 論理と感覚をふまえたうえで、さらにつきつめなければ事象を認識し理解したとは言えないようだ。この世のさまざまな事象を正しく把握し得心するのは容易なことではない。そんなやっかいなことを日食観測で想起してしまった。
[科学]

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