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『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸)を読了すると、遠い昔に読んだ吉本隆明の「マチウ書試論」を読み返してみたくなった。
吉本隆明が87歳で亡くなってから1カ月が過ぎ、雑誌では吉本隆明追悼記事が目立ち、テレビでも追悼番組が流れたりする。そんなことも、吉本隆明を読み返したくなった背景にある。
団塊世代の一人だった私は、御多分に漏れず吉本隆明に惹かれた時期があり、それなりの影響を受けていると思う。しかし、吉本隆明を理解したという気はしていない。
本棚に並んでいる吉本隆明の著作を数えてみると48冊あった。読了したのは半分もないだろう。手垢に汚れた本もあるが、大半は拾い読みした本だ。
この48冊の中で最初に購入したのが『藝術的抵抗と挫折』であり、この本の冒頭の「マチウ書試論」が、私が初めて読んだ吉本隆明の文章である。
「マチウ書試論」を読んだのは1968年の秋、私は19歳の大学生で、世の中は騒然としていた。そのころ、すでに吉本隆明の勇名は学生たちのあいだに轟いていた。『共同幻想論』はまだ出版されていなかったが、吉本隆明はスゴイという話はあちこちから耳に入ってきた。
今から思えば滑稽なほどに思いつめて右往左往していた私は、吉本隆明という人が何を言っているのかを知らなければならないと思った。そんな強迫観念から古本屋で購入したのが『藝術的抵抗と挫折』だった。
著者が吉本隆明という理由だけで購入した本の巻頭の評論が「マチウ書試論」だった。政治評論・文芸評論の本だとの認識はあったが、何が書かれているかの予備知識はなかった。
本文を読み始める前に読んだ「あとがき」に「『マチウ書』というのは、いわゆる『マタイ伝』のことであり、わたしはここで勝手に『マチウ書』とかえてしまった」とあったので、聖書がテーマだとはわかった。勝手に名前を変えてしまった理由はわからなかったが、そのことだけでも、わけのわからないスゴイことをする人だなと感じた。
そして、とにかく頭から、初めて手にした吉本隆明の本を読み始めた。読み進めながら、かなり面食らった。なぜ、原始キリスト教という浮世離れしたテーマなのだろうとの違和感があった。しかし、展開される内容には、妙になまなましい迫力があった。キリスト教やユダヤ教に関する知識が乏しい私には難解で、書いてあることの大半は理解できなかったが、聖書の「作者」を論じているところに驚きを感じた。
曲がりなりにも読了したのは、理解できようが理解できなからろうが、これを読了しなければ世界をとらえることはできず、おれはバカになってしまうという奇妙な強迫観念によるものだった。読了して「これが吉本隆明なのか」という畏怖と感慨を抱いた。
その後、かなりの吉本隆明の文章を読むことになるが、最初に読んだ「マチウ書試論」は強烈なパンチだった。初めて出会った吉本隆明の文書が、同時代の情況論や威勢のいい論争文ではなく、カッコいい詩でもなく、わけがわからない「マチウ書試論」だったことは、私にとっての「刷りこみ」になったようだ。懐が深く物事の本質を見通す怖い人だと感じてしまったのだ。
とにかく、「マチウ書試論」については「内容はよく理解できなかったがスゴイ評論だった」という印象だけが残り、長い年月が過ぎ去った。
そして、吉本隆明逝去から約1カ月が過ぎて「マチウ書試論」を読み返してみたくなったのだ。読み返すにあたって、事前に「マタイ福音書」(中央公論の「世界の名著」収録の前田護郎訳)に目を通した。
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